2017年8月10日木曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑤

サルベージ会社の潜水士とおぼしき理髪店の客がしだいに潜って見つけた巡洋艦「鳥海」の巨体。それは、

  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし

でした。理髪店の客は、三菱長崎で誕生したばかりの「鳥海」を見ていた。そしてまた、海に沈だ「鳥海」の最期の姿をもまのあたりにしているのです。

三菱長崎というのはたぶん、いまも長崎県にある三菱重工業長崎造船所=写真、wiki=のことでしょう。


長崎造船所は1857年(安政4)年、日本初の艦船修理工場である「長崎鎔鉄所」として誕生しました。1887(明治20)年には、明治政府から三菱に払い下げとなり、その後、民営の造船所として多くの艦船を建造しました。

特に民間で建造された初の戦艦である1915(大正4)年竣工の「霧島」や1942(昭和17年)の 戦艦「武蔵」がよく知られています。

また、「鳥海」と同じ重巡洋艦の「古鷹」「青葉」「羽黒」「三隈」「利根」「筑摩」も造られています。

「理髪店にて」が収められた詩集『パウロウの鶴』は、敗戦から10年あまり経った1957年に、書誌ユリイカから出版されています。長谷川龍生が29歳のときのことです。

同詩集の中に、「造船の夕暮」という作品があります。

  第四船台をぬけて
  夕ぐれのなぎさに立つ。
  なみ、たちせまる彼方
  飾磨の海空はくもっている。
  あらい縞げむりの吐きむらがるところ
  あれが広畑だと三菱の友がいった。
  ある秋たけた夕ぐれの海だった
  国籍不明の貸船が岸壁に近づくや
  木っぱになったスクラップの山を
  そのままごっそりと陸揚げし
  霧の海路を去っていった。

大阪市船場に7人兄姉の末っ子として生まれた龍生は、終戦前後にあたる10代後半から20代にかけて、さまざまな労働に携わりながら各地を放浪し、「詩を考えること」に終始する生活を送っていました。

「若いころ、港湾地帯の俗に言う“一本かつぎ”の重労働に従事したことがある。天秤棒のしなるリズムとしなるリズムと、足もとの水の上をわたしてある送り板の揺れ、腰力の切り方、左右のバランス、腰そのもののはこびが、たいせつであった。そのときは、労働がきびしくて、むだな“ことば”も交わせず、もくもくとして一日がうちすぎていった。いまからおもうと、そのような細密な肉体のうご
きは、からだの“ことば”ではなかったかとおもう」(1976年12月『国文学・解釈と鑑賞』の「“ことば”と体験」)

「造船の夕暮」は、そんな、阪神工業地帯で労働者として働いていた時の作品です。

この詩について、『パウロウの鶴』のあとがきで長谷川は「十数年経って、最近、それらの工業地帯をあるいて見て、日本の基幹産業の技術革新がもうれつな勢いで成長しているのを目の当りに見た。私は、もう一度、重工業地帯に目をすえて詩を考えようと思っている」と記しています。

龍生自身が、長崎造船所に行ったことがあるのか、「鳥海」が沈んだ現場を訪れたことがあるのかどうかは分かりません。しかし『理髪店にて』を書いたころ、「造船の夕暮」にもあるような三菱の関係の友人があり、そちらの方面の情報をかなり持っていたことが予想されます。

そして当時の重工業の象徴的存在だった「造船」というものに、軍艦をはじめとする船に対して、一方ならぬ興味を抱き、その本質を労働者として体で見極めようとしていたことは間違いありません。

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