2017年7月23日日曜日

日夏耿之介「伶人の朝」「青き神」

 きょうも詩集『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   伶人の朝

山門は四十歳の去勢者のごとき
その風貌と足踏みとをもて聳(そそ)り立てり
格天井に浮彫彩画ありて
十二匹の畜類は夫(か)のあらゆる奇蹟のごとく
単なる冷嘲(れいてう)をもて俯瞰す也
時は秋晴の朝(あした)なりき
若き伶人(れいじん)は小琴(をごと)掻き鳴らしつつ
その驕慢の一路を歩みきたれり
跫音(きようおん)は快き中音(アルト)に高く波打てり
この時丘の公孫樹(いてふ)は風なくて
金色の朽葉を振ひ落せしが
葉は太陽にきらめきわたり
白金の鴎を空気中に踊れりしか
伶人は歩みをとどめ得ざる也
その瞳は堂母の冷厳(れいごん)と伝統美とに
焼きつけられしもののごとくに爾(しか)くありき
斯(かか)る冒険の後脱出なせしこの人に
外光ふたたびかの奢侈なる美服を照し出(いで)しとき
門内の一隅に偃曝(ひなたぼこ)りしてただ仮睡せる
偏盲の女乞丐(をんなかたゐ)は何事か夢語をなせりき
朝(あさ)はきはめて寂寞なりき

   ◇

「冷嘲」は、冷ややかにあざけり笑うこと。

「伶人」は、雅楽を演奏する人=写真、wiki=、楽人、楽師。1870(明治3)年に太政官に置かれた雅楽局の楽人につけられた名称でもあります。

「偃」は、のいふす、あおむけに寝る、倒れ伏す。

「偏盲」は、片方の目が見えないこと。両目の大きさが著しく異なる人をいうこともあります。

「乞丐」は、こじき、ものもらい、物知らず、ばか者の意。


   青き神

ある夜寒―歌亡き宵(よ)也
嗤(あざわ)らふかの遊星の隙間(あひまあひま)を 閑閑と
わが世に来航(きた)る青き神神をわれ観たり
神の眼(まなこ)は 腐魚の臭ひを放ち
跫音(あしおと)は突風のごとく黝(かぐろ)き積雲を蹴上げつつ

窓に坐凭(ゐよ)り 限りなく愁ひ啼けば
神かたはらに彳みし

わが脈搏は 靭(つよ)く最高度に大波打ち
雪白(しろ)き肌膚(はだへ)のおのおのは
鋭(と)き夜の空気に軋(きし)みて
火を発(はな)たむとす

響なく色なく香なきいく刻に
この逢遭(はうさう)は人間の言の葉をも亡(な)みしたり
わが庭の小鳥のむれは気敏(けさと)くして
僅か七分の後に閑閑と遠離(とほざ)かりゆく神神のかげを睹(み)しか

音立てて燃ゆる空気と
狂ほしく叫ぶ大地と
かの仮睡に落ちゆかむとする昊天(おほぞら)の下(もと)にあり
啾啾(しうしう)と愁ひ泣き且跼蹐(きよくせき)する小さき我がかげを瞥(み)て
小鳥らの私語(さざ)めくを感ず也

   ◇

「凭」は」、もたれるという意。ここでは、窓にもたれているということでしょう。

「逢遭」は、めぐりあうこと、出会い。

「啾啾」は、小声でしくしくと泣くさま。



「跼蹐」は、跼天蹐地(きょくてんせきち)の略。高い天の下でからだを縮め、厚い大地の上を抜き足で歩く意。肩身がせまく、世間に気兼ねしながら暮らすこと、ひどくつつしみ恐れることをいいます。

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