2017年7月14日金曜日

日夏耿之介「軽舸の歌」「心虚しき街頭の散策者」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   軽舸の歌

透明の泪(なんだ)の湖(うみ)に
軽舸(こぶね)泛(うか)べ
ほのぐらき岸の花 真白く花咲きみだれ
夕風は淑やかに水浴を摂る
繊(ほそ)りし水竿(みさを)
蒼白き漣(さざなみ)の下腹を転(かへ)せども

日輪(ひ)は逝き 私語(ささめき)をのみて
面(おも)伏せる自然(もののね)の顔の上
舸(こぶね)は黙(もだ)しあゆみ
その歩武永遠(あゆみとこしへ)に遅き哉
噫(ああ) 明星よ
おん身が冷たき瞳を遁れいづる泪の雫は
わが舸(ふね)の水竿に泊(は)て 光りぬ

わが軽舸(こぶね) いづくに赴(ゆ)くや

   ◇

「軽舸」は、ふつうは軽快に走る小舟、舟足の速い舟の意。

「水竿」は、水底・岩などを押して、それによって船を進める棹。普通、竹で作ったものを用います。

「遁れ」は、逃れ、と同義で、のがれること。この場合は、好ましくない状態になるのを回避する、といった感じでしょう。「冷たき瞳を遁れいづる泪の雫」というのは、なかなか意味深長な美しい表現です。


   心虚しき街頭の散策者

視神経のいちじるしき疲憊(ひはい)と羞明(しうめい)と
あまりに夥く凝視したるか
街頭には黔首とその家畜とその自動車とがあり
柏は万葉(ばんえふ)を日光(ひざし)に笑(ゑま)ひ
国境線は路傍に頑迷(かたくな)の枯座をつづく
なにゆゑに微風はかく潜行するか
われは心虚(こころむな)しき街頭の散策者にすぎざる也

時ありて 耳辺(じへん)に水声(すいせい)す
猗(ああ) かかる大高原の途上において
逆巻き嗔恚(いか)る水流音をわれ感ず

なにゆゑにかくわれは心忙(こころいそ)ぎ逍遥するか
こころ 縛(いまし)められたるか
この瞳閉ぢざるべからず

   ◇

「黔首」は、人民、庶民、たみくさ。「黔」は黒色のことで、昔、中国で庶民はかぶりものをせず黒髪を出していたことに由来します。

「枯坐」はものさびしくひとりですわっていること。ここでは「国境線」がすわっています。

「水声」(すいせい)は、「谷川の水声」というように水の流れる音。耳もとに水の音がしてきたのでしょう。

「瞋恚」(しんい、しんに)は、怒り、仏教では、十悪の一つで、自分の心に逆らうものを憎み怒ることをいいます。

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