2017年6月8日木曜日

吉野弘「I was born」⑪

〈  父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。〉

「生まれてから二、三日で死ぬ」という宿命にあるカゲロウ。数千個の卵を産み落としても、孵化するのにふつう10日以上かかるそうですから、カゲロウの親は幼虫を見ることなく生命を終えることになります。「I was born」に出てくる「お母さん」も、わが子の顔を見ることなく死んでいます。

「I was born」は、雑誌『詩学』の1952(昭和27)年11月号に発表されました。このとき吉野弘は26歳。詩を発表した直後に吉野は結婚し、2人の娘の父となりました。


カゲロウや「お母さん」と違って、生まれた娘たちと出あう感動を味わうことができたのです。『遊動視点』=写真=の「紐」というエッセーには、次のように記されています。

〈長女は産婦人科の病院で生まれたが、次女は自宅で、しかも産婆さんの手で生まれたので、そのとき、臍の緒なるものを、この目でしかと見ることができたのである。

襖で仕切った向うの部屋で、産婆さんの威勢の良い声がした。「お嬢さんですよ」産婆さんは私と妻に言った。産婆さんの両掌の上に赤ん坊が俯伏せになっていた。

少し紫がかった肌で、白粉のようなものが、所々に付着していた。そして赤ん坊の腹からは、太い半透明の臍の緒が、電話のコードのように実に頼母しくゆれていた。

まぶしい程の臍の緒の中心を走っている赤いものは血液だと、産婆さんに教えられ、私は、言うべき言葉を思いつかなかった。

なんという力強い紐だったろう、なんという美しい生命の紐だったろう。私は目のさめるようなすばらしい紐を、そのとき見たのであった。〉

父親として、生命をつなぐ「目のさめるようなすばらしい紐」を目にしました。しかしが、「生を得る」ということは、同時に「死をわけあたえられる」ことでもありました。「I was born」の収められた第1詩集『消息』に、「初めての児に」という題の次のような詩があります。

  お前がうまれて間もない日。

  禿鷹のように
  そのひとたちはやってきて
  黒い皮鞄のふたを
  あけたりしめたりした。

  生命保険の勧誘員だった。

   (ずいぶん お耳が早い)
  私が驚いてみせると
  そのひとたちは笑って答えた。
   〈匂いが届きますから〉

  顔の貌(かたち)さえさだまらぬ
  やわらかなお前の身体の
  どこに
  私は小さな死を
  わけあたえたのだろう。

  もう
  かんばしい匂いを
  ただよはせていた というではないか。

わが子が生まれるやいなや、「匂い」を嗅ぎつけてやってきた生命保険の勧誘員。それに対して、詩人は「顔の貌さえさだまらぬ/やわらかなお前の身体の/どこに/私は小さな死を/わけあたえたのだろう」と思います。

前にあげた『遊動視点』のエッセーの中で吉野は、臍の緒のほかに、もう一つの「紐」を取り上げています。

〈「紐」という言葉を聞いたときに思い浮かぶ、もう一つのイメージがある。たとえば百科事典などで、ある人について調べる場合、必ず目につくことであるが、その人の生まれた年――それは殆ど西暦で書かれているが――その生まれた年と死んだ年とが、短い線で結ばれていることである。

すでに亡くなっている人の場合だと、あまり、この線の印象は強くないのであるが、現在まだ生きている人の場合、生まれた年にくっついているこの線は、なぜか不気味である。この線はこう言っているわけである「この人物はまだ生きている、つまり、まだ死んでいない」。



この世に生を享けている人は例外なしに、自分の生まれた年の下に、この、あまり縁起でもない紐、見えない紐をぶら下げているのである。このことは、ちょっと気どって言えば、生命はすべて、死の紐つきだということになるだろうか。〉

0 件のコメント:

コメントを投稿