2017年6月7日水曜日

吉野弘「I was born」⑩

    仕事

  定年で会社をやめたひとが
  ――ちょっと遊びに
  といって僕の職場に顔を出した。
  ――退屈でしてねえ
  ――いいご身分じゃないか
  ――それが、一人きりだと落ちつかないんですよ
  元同僚の傍の倚子に坐ったその頬はこけ
  頭に白いものがふえている。

  そのひとが慰さめられて帰ったあと
  友人の一人がいう。
  ――驚いたな、仕事をしないと
    ああも老(ふ)けこむかね
  向い側の同僚が断言する。
  ――人間は矢張り、働くように出来ているのさ
  聞いていた僕の中の
  一人は肯き他の一人は拒む。

  そのひとが、別の日
  にこにこしてあらわれた。
  ――仕事が見つかりましたよ
    小さな町工場ですがね

  これが現代の幸福というものかもしれないが
  なぜかしら僕は
  ひところの彼のげっそりやせた顔がなつかしく
  いまだに僕の心の壁に掛けている。

  仕事にありついて若返った彼
  あれは、何かを失ったあとの彼のような気がして。
  ほんとうの彼ではないような気がして。


詩「仕事」は、吉野弘の第3詩集『10ワットの太陽』に収められています。

〈 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。〉

受け身である「I was born 」、「生まれさせられ」た、存在させられた人間。こうして与えられた「生」というのは、一生、「受身形」でありつづけるのでしょうか。

私たちは、自らの意志で自らの生き方を決め、自らの好きな人を愛し、自らやりたい仕事をします。当然、すべてがそんなにうまくはいくはずはないのだけれど、ふつうはそうしたいと思っています。

でも「受身形」で生を受けた人間は、誕生してから後も本来的には、そんなに意志的、主体的になり得るものではないのかもしれません。詩「I was born 」を読んで私は、ふと、そう感じました。

たとえ食べるため、家族を養うためにつづけてきた仕事であっても、いざ、そこから離れ、やることがなくなると、詩「仕事」にあるように、落ち着かず、老けこんでしまうというようなことはよく聞きます。

本当に生き甲斐を感じ、自ら切り開き、自己実現をしている思う仕事や職業についたとしても、ひとはそれを「天命」と、「天職」と呼びます。天から授けられた、どこか受身的なとらえかたをするわけです。

けれど、詩人は、

  ――人間は矢張り、働くように出来ているのさ
  聞いていた僕の中の
  一人は肯き他の一人は拒む。

そして、

  仕事にありついて若返った彼
  あれは、何かを失ったあとの彼のような気がして。
  ほんとうの彼ではないような気がして。

と思います。そんなふうに、私も感じます。

たとえ一人っきりで惨めな最期を迎えても、いい歳になっても、天や“遺伝子”にさからってでも、「受身形」ではない自分なりの人生を生きてみたいと思っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿