2017年6月6日火曜日

吉野弘「I was born」⑨

「I was born」を読むと、私はいつも『利己的な遺伝子』のことが頭に浮かびます。

「我々は遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく、盲目的にプログラムされたロボットなのだ」という有名な書き出しで知られるイギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンス=写真、wiki=の著書だ。

ドーキンスは「自然選択の実質的な単位が遺伝子である」とする、遺伝子を中心とした進化理論を提唱したことで知られている。


『The selfish gene』という題名で1976年に出版。1991年に邦訳が出て、国内でも大きな話題を呼びました。

われわれ生物は「遺伝子によって利用される“乗り物”に過ぎない」という比喩表現は、私にとっても「こんな考え方もできるんだ」と驚きでした。

「なぜ男は浮気をするのか」「なぜ世の中から争いがなくならないのか」といった問題についても、自らのコピーを増やそうとする遺伝子の利己的なふるまいから、ドーキンスは解き明かしてみせました。

ところで、はかないものの代名詞のようにいわれるカゲロウだが、以前もみたように、石炭紀後期にすでに地上にいたことがわかっている。およそ3億年ものあいだ「生」をつなぎ、遺伝子を生き残らせてきたのです。

それに比べるとわれわれ人類の歴史は、まだ無いに等しい短期間ですが、とりあえずなんとか500万年くらいは生命のバトンを繋いでいます。これも、利己的な遺伝子のなせるワザということでしょうか。

〈 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。〉

ドーキンス流に考えれば、利己的な遺伝子の“乗り物”として「人間は生まれさせられるんだ」ということになるのだろう。そして、

〈――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――〉

カゲロウが「何の為に世の中へ出てくるのか」かといえば、「遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせる」ため、ということになります。そのために、

〈口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。〉

というように卵をつくり、2~3日の短い生涯を懸命に生きます。

『利己的な遺伝子』を翻訳した日高敏隆は、次のように記しています(「i feel」出版部50周年記念号)。

〈(ドーキンスのいうような)プログラムを作りあげているのは遺伝子の集団であって、どれか特定の遺伝子ではない。そしてプログラムがどのようにしてできるのかは、「ヒト・ゲノム」がわかったからといってすぐにわかるようなものではない。

このプログラムは人をロボットのように操っているのではない。遺伝的プログラムは厳然として存在しているが、それを具体化していくのは、個体であり個人なのである。

ドーキンスの『利己的な遺伝子』の邦訳が出版されたとき、それを手にした多くの人々は何か癪にさわるものを感じたらしい。しかし癪にさわると思いつつもついつい読んでしまったと言っていた。このあたりにこの本のもつ興味ぶかい意味があるような気がする。〉

われわれの生命というものが「遺伝子の“乗り物”」に過ぎないものであるかどうかはともかく、ある意味で「淋しい」「せつなげ」な構造をしていることはたしかでしょう。

「I was born」で少年が発見したように、ひとは気がついたときには生まれさせられていて、確実に待っているのは死。生きるというのは、その誕生から死までの過程でしかありません。

けれど、「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見える」カゲロウの卵たちにしても、輝いている「光の粒々」なのです。



〈私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。〉の「せつなげだね」からは、こうした「生」を精いっぱい受け止めて前向きに生きようとする、すがすがしい姿がかいま見えてきます。

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