2017年6月5日月曜日

吉野弘「I was born」⑧

〈満員のバスが終点に着くと、乗客たちはいっせいに出口に集まり、目立たぬように先を争った。先を争うので、かえって揉みあいになり車内の人の数はなかなか減らないのだった。

奥の座席に、二、三歳ぐらいの子供を連れた若い母がいた。子供に靴をはかせて席を立つと、大きな声で「さあ早くおりましょうね」といった。

そして子供の両肩をうしろから両手で押し出すようにして、人々の塊りの中へ、うしろからスッと割りこんだ。それはいかにも自然な動作で、たちまち、親子連れは車の外へ出てしまった。

私は感心して見送った。彼女が子供連れでなく一人きりのときだったら様子は少し違ったかもしれない。人込みを分けたのは、子供と一緒だったからこそ、自然にそうしたのではないか。母親である故に無意識にとった行為――私はそう思って感嘆したのだ。

父という立場の男だったら、なかなか、こうはゆくまい。男は、その時々の社会秩序に枠づけられ、いわゆる良識の中に生きている。だから、まず世間体を考え、世間に献身し、時には義務のために湯玉のように飛散する。

子供を守るということに限っていえば、このような良識的な父は、頼りなくてもろい。世間に色目を使う父より、まず身辺第一主義でゆく母のほうがどれだけ頼りになることか。

誰も、自分の母を、この若い母のようだとは思いたくないだろう。私もまた同じ思いだが、つきつめれば、同じであったのではないかという気もする。

私の妻の母は、極端に食糧事情の悪かった戦後のある日、子供たちに食べさせたい一念で、他人の畑から、薩摩芋の蔓を盗んできたことがあるらしい。芋には、さすがに手が出せず、芋を掘ったあとに放置された蔓を、夜陰に乗じて持ってきたとか。

「あの気の小さい母が、と思うとなんだか必死なようで滑稽で……」と妻は笑うのだが、父といわれる世の男が、恥も外聞もないこんな盗みをするだろうか。

私も世の男並みに女性を笑うことはあるが、子供のために世の掟を破るという無意識的な生活力には、とても批判の歯は立たないのである。〉


1970年に発表された「母性」というエッセイの中で、吉野弘はこんなふうに記しています。

〈 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――〉

人間のように「何の為に」なんて考えなくていいのが、昆虫のうらやましいところなのですが、あえて何の為かと理屈をつけるとすれば、もちろん「子孫」を残すためということになるのでしょう。

すでに見たように、生のある2~3日の間にメスは、交尾から産卵まで終えなければなりません。「群れ飛び」をする集団に飛び込んでオスをとらえ、素早く交尾、産卵場所を求めて飛び回った末、5000個をこえる卵を産みます。考えて見れば、とてつもない「仕事」をしているわけです。

高齢化、少子化が著しい現代ならともかく、戦時中の貧しく厳しい時代に多くの子ども産み、育てなければならなかった詩人の母の世代の女性たちにとってもきっと、「子供たちに食べさせたい一念で、他人の畑から、薩摩芋の蔓を盗んで」くることはあっても、「一体 何の為に世の中へ出てくるのか」などと考える余地はなかったでしょう。

〈 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。〉

「I was born」が『詩学』に投稿されたのは、1952年。1950年の朝鮮戦争特需もあって、焼け跡からの復興にもようやくメドがたち、戦後の食糧難も改善されたころのことです。ようやく父と子の間で、「生」を客観的に語る余裕も生まれてきた時代だったのでしょう。

そんなころ、「身辺第一主義でゆく」ような母を失った詩人が、「その時々の社会秩序に枠づけられ、いわゆる良識の中に」生きている父との間で交わされた対話だったのです。

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