2017年6月2日金曜日

吉野弘「I was born」⑥

〈あるとき私は、I was born という英文が受身型の叙述であることに気付きました。これがもし、母国語で「私は生まれた」と書かれてある文章なら、そんなことに気付きもしなかったのでしょうが、そこが外国語の面白いところです。

母国語は、一応誰でもが、日用の方便として使いますから、物事の本質を示すものとして、考えられることはきわめて少ないのですが、外国語にふれることによって、母国語を見直すばかりでなく、言語そのものの活力にふれることができます。

さて、前述のI was born ですが、一体なぜ、こんな言葉に、こだわらねばならないのかと思うくらい、こだわっていましたが、ついに投げ出して、というよりはむしろ、この厄介者から逃げ出して、随分長い間、うっちゃって置きました。

それから多分、半年ぐらいあとのことだったと思いますが、私は大町文衛という方の『日本昆虫記』に出会い、その中の「はかない虫」の項を読んでいました。蜉蝣(かげろう)の話なのですが、こんなようなことが書いてありました。

蜉蝣の口は全く退化して食物を摂取することが出来ず、胃を解剖しても、入っているのは空気ばかり。

これでは短命なのも無理はないが、雌の腹の中をみると、卵だけが充満していて胸の方まで及んでいる云々。

私の目に突如、蜉蝣の腹の中の小さな卵の粒々が迫ってきました。亡くなった母を、私は思い、母の胎内の私を想像していました。これは、母に対する追悼の気持からだったと思いますが、間髪を容れず、例のI was born が飛びこんできました。

そうして私は以前長くこだわっていたことの意味を、一瞬理解しました。決定だった心像は、蜉蝣の卵です。

それは、ひとつの意志でした。生み出されるというひとつの宿命の心像でありながら、それは、みずから生をうけようとしている意志の心像だったわけです。

私はこの心像によって、生を負い目と感じていた私から一瞬解放されました。一種の虚無感を、卵と、母の中の私の心像が、力強くはね返してくれたのです。いくらかの曲折を経て、これは「I was born 」という散文風の詩になりましたが、この中心は、先刻もふれましたが、卵です。

死と生とが釣り合っているという心像というよりは、生が死を圧倒しているものとして、私の中に働きかけたのです。ですから、この場合は、矛盾というよりは、矛盾を突き破る力として私に感じられたものと記憶しています。〉


吉野弘は、「I was born 」を作ったころのことについて、自著『現代詩入門』の中でこのように記しています。

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

外国語にふれることによって「受身型」であることを発見した「I was born」。「一体なぜ、こんな言葉に、こだわらねばならないのかと思うくらい、こだわって」いたものの、「この厄介者から逃げ出して、随分長い間、うっちゃって」いたのです。

それから、半年ぐらいしたときに知った「蜉蝣の話」がきっかけとなって、「間髪を容れず」に、寝ていた「例のI was born が飛びこんで」くることになる。そして、作品として花開いたわけです。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

「蜉蝣の話」は実際には、「父」から聞いたのではなく“コオロギ博士”として知られた昆虫学者、大町文衛の『日本昆虫記』を読んで、のことだったようですが、吉野が母を早く亡くしているのは事実なのでしょう。

〈ある経験が詩作品のモチーフになったり、若干アレンジされて作品化されるケースは少なくないが、吉野弘の詩ではとりわけ経験なり体験が、事実にそくしながら作品化しているケースが多いように思われる。「お母さん」は実際には作者が十三歳のときに亡くなったが、作品ではもちろん事実そのままに設定する必要はまったくない〉(『現代詩の鑑賞101』)と八木忠栄は記しています。

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