2017年6月1日木曜日

吉野弘「I was born」⑤

僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

多くのカゲロウの成虫の寿命は2~3日。この間にメスは、交尾から産卵まで終えなければなりません。

人間にたとえるなら、男女の出逢い、恋愛、結婚、出産をこの短い時間のなかでやり遂げなければならないことになります。大変なことです。

特に春の天気は変わりやすく、暖かい晴天は長くは続きません。成虫になったときの天候や環境も、その命運を大きく左右します。岡崎博文著『カゲロウのすべて』=写真=を参考に、カゲロウのそうした産卵の経過をたどってみましょう。


カゲロウの成虫は、早春や晩秋のころは正午ごろを中心に、初夏から秋にかけては日の出と日の入りごろを中心とした時間帯にオスが「群れ飛び」をします。「群れ飛び」は、川原のの岸辺や橋の上、道路上などで見られます。

「群れ飛び」をする集団はオスばかり。横のほうからメスが飛び込んでくると、集団のオスの一匹が素早くとらえて両者は群れから離れます。

オスは長い前脚と腹部のはしにある把持子(はじし)で、メスの腹をはさみつけるようにして体を固定し、交尾態勢に入ります。交尾は短時間で終わります。

交尾を終えたメスは産卵場所を求めて、川の上を行ったり来たり、直線的にあわただしく飛び回ったりします。産卵のしかたには大きく分けて三つのタイプがあります。

①腹部の末端から少しずつにじり出した卵のかたまりを、水際で、尾の部分を水面につけるようにして産卵を数回繰り返す。あるいは、飛びながら水面に尾部をつけて産卵する。

②直径2~3ミリの1つに固まった卵塊を腹部の末端から産んで、水面の上に落とし、一度でで産卵を終える。水に落ちた卵塊は膨らんで、お互いにくっつきあって小石などにくっつく。

③メス自身が水中に潜り、流れの中で石の裏に直接産み付ける。子どものころ川原の小石を持ち上げたとき、産卵しているカゲロウに出くわしたことのあるかたもいるかもしれない。

カゲロウの卵は長楕円形をしていて、長径約0.3ミリ、短径約0.2ミリ。卵の数は2000個から7500個程度になります。

卵の表面は、粘着性の細糸をもつもの、円形の突起をもつもの、多角形、放射状、凹凸、点状など複雑な模様が見られるもの、細糸で互いに結合しあうものなどさまざま。

岸部近くに産卵する種の卵は、表面がなめらかなものが多く、流水中に産み落とされる種の卵は、水中の小石や植物にくっついたり、互いに離れにくくなったりする構造をもっているようです。

たとえば、モンカゲロウは4月終わりから5月初めにかけて、1匹のメスが5000個をこえる卵を産みます。『カゲロウのすべて』によれば、成虫メスから採取した卵をシャーレに入れて孵化のようすを観察すると、採取日から12~20日で、孵化は一斉に起こり孵化率も高かったといいます。

しかし、たとえうまく幼虫になっても、カワゲラ、ヘビトンボなどの昆虫やウグイ、イワナ、カワムツなど淡水魚、カワガラスなどに食べられてしまいます。無事に成虫になって陸上に出ても、クモの巣にかかったり、セグロセキレイなどが待ちかまえています。

オスの「群れ飛び」やメスの産卵のときも、魚や小鳥たちにねらわれる。産卵された卵のほとんどは、天寿を全うすることなく死んでゆきます。

〈ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。〉

詩の「父」が、「友人」に拡大鏡で見せてもらったカゲロウのメスを見て感じた「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみ」。それは「淋しい」。けれど、そんな危ういところに置かれている「生」は、光り輝いています。

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