2017年6月17日土曜日

日夏耿之介『転身の頌』序⑦

 きょうは『転身の頌』序の「十一」から、最後の「十三」までです。

十一

本集は七章に分れてゐるが、自分の心性を跡づけるものは、『古風な月』を第一とし『羞明』と、『黙禱』を経て『転身』に及ぶ。

『古風な月』は、内なるものが、未だ覚めなかつた稚醇時代の追憶の片身である。

外生の重積に圧せられて、歔欷と悲鳴と憤激とを継続しながら、尚最も静謐な万有の固有表情の芸術上内在美に憧れた一種偏失の情調であつた。

此の月光惝怳者は、単なる羅漫底格としては余りに古典的な――古雅、温籍、寂静、冷艶の様式美――歪んだ、曲つた、朧銀の燻つた光の心を所有してゐた。

古風な月の光は病弱な心身を照す。

稚き心は、今目覚めようとする孩子のやうに、明るみに眼をしぼしぼさせて、じつと心の海に波打つ声を聴いてゐる。

外生の襲撃にあへば、貝類のやうに忙しく蓋をしてしまふのであるが開かないでは止まない勢力に押し出されて、またおづおづと小心の瞳を瞠かむとする。

かすかに指し込む月夜の世界に躍り狂ふ己が心の化怪の姿に自づと魅惑せられて、次第に薄ら明るむ昧爽を苛立たしく誇らしく、心待ちに待つてゐた。

十二

『羞明』は来た。病弱の身と怯懦の心が欣求する楽欲の世界に吾れから闖入して絶望の自己狂歓が開かれた。

官能の理想主義者ガブリエエレ・ダヌンチヨに傾倒した十八歳より二十三歳に及ぶ数年間は、青春の血潮の変形である。

柔かい、脆い、そこはかとなくおぼろめく情趣から沸き上つた気軽な思想に狂ひわめいてゐたので、本性の肉体上脆弱に眼を閉ぢ、感覚の悦楽に只々心の触覚を指し向けてゐた。

されば、官能の対象に身を浴びても、快楽としてよりは寧ろ雙端の力の軋めきから生れる痛苦としてのみより多く残つた。

自ら肯定する歓楽の論理と実際とが余りに相抗の激しいものであるに愕き乍ら、他に執心の何ものをも獲得する術を自ら考慮しない為、苦笑して尚惰性的に焦燥の月日を過した。

享楽は自分にとつて多く概念的に終始した。

病が進み、血潮が衰へた時、わが父は狂者として爾後三年間、わが母と、兄弟との専念の看護により、生ける屍を照る日の下に横たへた。

自分の心の羞明は此の時赤道下を航下した。何者をも斥けた自分は殉情的に何者をも容れ、何者にも縋らんとした。

『黙禱』につづく、『転身』の時が来る。

『生涯には顔から火の出るやうな失敗の五六は誰にもあるもの』
 と世慣れたモンテイヌが著書に於て自分に教へた言葉にたより、狂熱の夢の間を過ぎ来つた自分はすべてを恥かしい懺悔に埋める。

十三

心緒の沈潜に伴れてスピノザが汎神論の万有観を予は凝視した。また、密林の水枝に神の顔を眺め、濁江の底に神の声をききかつ怕れた、稚き神観の経験者の凡て然るが如くに、予は朝祷し昼祷し、夜更けて尚黙禱静思した。

予の肉身は重き空気の中心から瓦斯体の如くに浮び出でた。触目するものは悉く皆回転しはじめた。遠方に叫ぶ野獣の姿を見た。青空の中に散布された星群を見た。

月光惝悦者は日輪の羞明を経て、カアライルが所謂久遠転身Perpetual Metamorphosesの星の瞬きを幻惑し、かつ祈り、かつ思ひ、読書とVisionとの閑寂な微笑の月日を躊躇せずに受け容れた。

策迷の触手は、なほ不断にあらゆる十方の物象を指さす。謬り肥え太つた擬文化の酸敗として今次の世界戦役が開かれた。此の文化。文化の断滅即ち人類の永遠――此の撞着せる命題に威嚇せらるる現代文化。

1917年2月22日誕辰 鎌倉 日夏耿之介


「十一」に出てくる「羅曼底格」。漱石の友人で『吾輩は猫である』に登場する美学者・迷亭のモデルとされる大塚保治の論文「ロマンチックを論じて我邦文芸の現況に及ぶ」(1902年)の別タイトルは、「羅曼底格論」となっています。

「孩子」(がいし)は、中国語で子供のこと。「昧爽」(まいそう)は、明け方のほの暗い時を指します。

「十二」の「ガブリエエレ・ダヌンチヨ」(Gabriele D'Annunzio、1863-1938)=写真、wiki=は、イタリアの詩人、作家、劇作家。ファシスト運動の先駆的な政治的活動を行ったことで知られています。日本では、三島由紀夫も、大きな影響を受けたようです。

「享楽は自分にとつて多く概念的に終始した」という一文は、耿之介をしる一つのヒントになるかもしれません。

「羞明」(しゅうめい)は英語でphotophobia。医学的には、強い光を受けたときに、不快感や眼の痛みなどを生じることで眼や神経の疾患が疑われます。鴎外の「青年」に「鈍い頭痛がしていて、目に羞明を感じる」とあります。

「モンテイヌ」は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表するモラリスト、ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne、1533~1592)。「著書」というのは、主著の『エセー(Essais、随想録)』でしょうか。

「十三」の「スピノザ」(Baruch De Spinoza、1632-1677)は、オランダの哲学者、神学者。デカルトやライプニッツとならぶ合理主義哲学者として知られ、ドイツ観念論やフランス現代思想へも大きな影響を与えました。「汎神論」は、すべてのものや概念、法則が神の顕現であり神性を持つ、あるいは神そのものとみる思想、世界観のことです。



「カアライル」(Thomas Carlyle、 1795-1881)は、19世紀イギリスの歴史家・評論家。ヴィクトリア朝時代を代表する言論人であった。代表作に、『英雄崇拝論』、『フランス革命史』、『オリバー・クロムウェル』、『衣装哲学』など。神、預言者、詩人、帝王など「世界の歴史は英雄によって作られる」と主張したことで知られています。

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