2017年6月16日金曜日

日夏耿之介『転身の頌』序⑥

 きょうは『転身の頌』序の「八」から「十」です。



古代波斯白毛道衣派(スーフヰズム)哲人の一人が、たまたまの法悦に陥つた際、『われは神なり』と称えへ、天界の極秘を悉く其の徒弟等に伝へた。

事は数回反復された。一人の徒弟がある日の恍惚から覚めた師にこれを告げた。

哲人は面色を変へて愕き、且つ徒弟の情を謝し、さて『かかる事が将来再び繰り返されたならば、直ちにこれで己れを刺してくれ』と一振の短刀を手渡した。

翌日、師はまた法悦に入つて天界の秘を伝へ初めた。徒弟は矢庭に飛び掛かつて師の咽喉を刺した。

此の時、短刀は鉄板に当つたやうに撥ね返つて、徒弟の咽喉深く突き刺つた。

法悦は神の意志である。個体は選ばれた神子である。人力以上の処に超人力が在る。天才は神から下つたか。人から上つたか。



『まことの詩は、詩人でなくて詩人其のものである。』われらは詩の透明な光を、内なる世界より仮象世界へ、抽象より具象へ軈て紙上に捕獲せむとする慾望に捉はれる。このとき言葉が生れる。

言葉は仮りの媒介者であるが、内なる世界に交渉の度合深ければ深いだけ言葉を愛籠する情致が深くなる。言葉は、それに泥みすぎることのない程度で専念に磨かねばならぬ。

心性史の金鉱から掘り出された言葉の粗金(あらがね)は、磨くに従つて燦然の光を放つ、此の時自づから言葉は詩興の壺に嵌まる。言葉を絶対に駆使するには、彼等をその伝統の羈絆から切り放たねばならぬ。

言葉は心の庭で心が磨き出しやがて形の与へられるのであるが、其の歴史を一一に亡ぼして新しい個性を与へねばならぬ。性命の鮮血をそそがねばならぬ。



象形文字の精霊は、多く視覚を通じ大脳に伝達される。音調以外のあらゆるものは視覚に倚らねばならぬ。形態と音調との錯綜美が完全の使命である。

この『黄金均衡(ゴールドウン・アベレイジ)』を逸すると、単に断滅の噪音のみが余計に響かれる。

象形文字を使用する本邦現代の言語は、其の不完全な語法上制約に縛られて、複雑の思想と多様の韻律とを鳴りひびかするに先天的の不具である。

文語と日常語的文語との各区分もややこしい問題である。

多くの議論以上、われらは今の日常語を完成する使命を痛感してゐる。

内なる世界を顧みると、われらは詩作に際し、此の痛感以外に、以上三体の言葉を自由に種別に順応せしめて使用したい欲求を有つことを余儀なくされる。

此の詩集には主として文語使用の詩篇のみを集成したが、所詮、読者自ら、文語の固陋な因習の邪悪的半面から努力して蝉脱する時、簡勁の古文体詩篇も自ら全く鮮やかに新しい近代の性命を帯びて再生するであらう。

此の集の永遠性の一部を此の点に鉤掛ける。


「波斯」は、ペルシャ。「白毛道衣派(スーフヰズム)」すなわちスーフィズム(Sufism)は、イスラーム教の神秘主義哲学。担い手のスーフィーにイズムをつけて、こう呼ばれたそうです。

スーフィズムでは、導師の指導のもと禁欲的で厳しい修行をするそうです。白い布状の服を身につけて一心不乱にまわる回旋舞踊(ズィクル)とうものをして、神との一体化を求めるということです=写真、wiki。

「九」では、「まことの詩は、詩人でなくて詩人其のものである」などと、言葉と詩についての耿之介の考え方が明確に示されています。

「羈絆」(きはん)は、「羈」も「絆」も牛馬をつなぎとめるものの意であるところから、行動する者の妨げになるものや事柄。きずな。ほだし。束縛。寺田寅彦の「藤棚の陰」に「この世の羈絆と濁穢(じょくえ)を脱ぎ捨てる」とあります。

「十」の「断滅」は、字の通り、絶やし滅ぼすこと。「噪音」は、 振動が不規則で、振動時間がきわめて短く、音の高さが特定できない音。あるいは、騒音のことをいいます。



「三体の言葉」とは、「文語」「日常語的文語」「日常語」ということでしょうか。「簡勁」は、言葉・文章などが、簡潔で力強いことをいいます。

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