2017年6月12日月曜日

日夏耿之介『転身の頌』序②

 きょうは、『転身の頌』序の「二」です。



貧しきわれにも、夜更けてしばしば病苦に眼覚め、一二時間の枯坐観想を強ひられるとき特に、あるひは白日の閑寂な密林、光り眩ゆい海辺の散策の折りなどにも、また偉人の残し与へた古名品に臨む時などにも、言ひ表はし得ない快活なたましひが、渾身の血潮を悦ばしい力に充ち満ちた、しかし淑やかな奔躍に駆り、肉身はかすかに顫へて、ものとしもないときめきに胸わななく一瞬時がある。

この時夜ならば枕頭にいつも置いてある白紙に焦慮することなく、この自らをとどめんと努める。

この大喜悦は、宗門の徒によって法悦と称ばれ、芸術の表現人によつて霊感と仮りに名づけられてゐる。

表現者の稟性の種別に応じて、霊感はさまざまの時と処とに鬼人のごとく出没する。

あるものは酒精又は印度大麻の蟲惑の媒力を要し、あるものは腐れかかつた林檎の香をかぎ、またあるものは聖経を踊して、眼前に形態を備へて出現する幻覚を夢心地に禦ぎながら、夢幻の間に表現の努力を了へる。

霊感は、又、表現人によつて著しく虐遇され、殆ど其の可能性を認められない事すらもあるけれど、多く之れは、彼れの心向の特殊性に基くのであつて、かかる人の場合でも、霊感は自由に遠慮なく潜行して謙虚な行ひを果してゐる。

単に一庶物の並列があらうと、積極の緊張した心の一聯鎖があらうと、外貌に現れたものには、固より何のかかはりもない。

所詮、偉いなる力は、時を竊んで人間の胸深く忍び入り、腕をつたはつて指頭のペンに顕れ出て、軈て文字となり言葉をなして分娩が完了する。

優れた詩人は、ひたすらに謙抑篤実な実在本体への媒霊者(メデイアム)である故に跪拝せられる。

詩人の精進は、いつもその心の大洋に浪打つ生の律動の生命を直視する各努力であり、又、唯一大霊への黙禱、本体への思念である。

その純真にして敢為なるべき『我』の生活が、たまたま狐疑の索迷に陥没してゐるとき、時あつて多くの擬霊に欺かれ、また、自己自らのために誑かされる。

詩人のたましひは玻璃の傀儡である。黄蠟の人形である。かれらは、地熱や日輪の光のために溶ける。自らの火のためにも身を亡ぼす。

最も繊美に神経的に反響を持続する機具は、常に最も高貴に造られねばならぬ。

宇宙に遍満した光あるたましひは、表現人の心緒に錯交し、心の硝子管をつたはつて、あらゆる人の感覚を通じ其の心霊らの面前にまで展開される。

芸術史上多くの、Beatific Visionは、この奇蹟の春の朝の鳥声である。


耿之介は、1906(明治39)年、16歳の春、脳神経病を患って京北中学校を中退するなど、若いときから「病苦」とともにありました。

「枯坐観想」とは、ものさびしくつくねんと座って、思いを凝らすことをいいます。

「法悦」とは、仏教の教えを聞き、味わって喜ぶこと。あるいは、なんらかの状態において生じる恍惚感のこと。

「竊」は「窃」。ぬすむ、ひそかに。他人の物をこっそりぬすみ取ること。

「狐疑」は、狐(きつね)は疑い深い性質をもつというところから、相手のことを疑う意。「誑」の読みは、たぶら(かす)です。



「beatific vision」は、見神。キリスト教で、霊感によって神の本体を感じ悟ること。神霊の働きを感知することの意です。

0 件のコメント:

コメントを投稿