2017年5月24日水曜日

「病牀六尺」の力⑥

生と死のぎりぎりで書かれた『ロマンツェーロ』以降の作品には、確かに苦痛や苦悩の色合いが濃くあらわれています。

しかし冒頭にあげた詩を見てもわかるように、不思議に個人的な世界に矮小化することなく、開かれています。

冷静な描写のなかに思想と体験とが高いところで見事に結晶した、象徴的な世界をうかがうこともできます。

井上は「死に臨んで作られた悲痛凄惨な内容のかずかずの詩も、そのスタイルのみごとな形式に包まれて、最高度の芸術に開花しているといえる」としたうえで、「政治から孤立し、社会から隔絶し、ひとり死の床に呻吟しながらも、しかも、ハイネは政治や社会から離れきることはなかった」と指摘しています。

肉体は侵されながらも、精神は崩れることなく奇蹟ともいえる力を発揮したハイネの絶筆は、「ムーシュのために」とされています。片山敏彦の訳(新潮文庫『ハイネ詩集』)を読んでおきましょう。


     ムーシュのために(抄)

しかし私の墓の上には
珍しいかたちの、菫のはなが咲いていた。
花びらは硫黄いろの黄とそしてむらさきだった。
そして花の中には野生的な愛の力が生きていた。

そんな花がわたしの墓に咲いていた。
そして私のなきがらの上に身をかがめて
私の手に、額に、眼に接吻した、
悲しげに、無言に、恰も女ごころの嘆きのように。

しかし夢の持つ妖術よ! 不思議にも
硫黄いろの情熱の花は
一人の女の姿に変容した、
そしてそれがあなただった――まさにあなただった、懐しい人よ!

あなたがその花だった、そうなのだ、
その口づけで、それがあなたなのだと確かに判った。
どんな花の唇にもあんな情愛はこもっていない。
どんな花の涙にもあんな熱情は燃えていない。

私の眼はとじていたけれど
魂はあなたの顔を見まもっていた。
そしてあなたも私を見つめていた、その心は悦びにふるえつつ
姿は月の光のため精霊のようにほのぼの照って。

私たちは話さなかった。しかし私の心は聴き取っていた、
口には言わずあなたが心の奥で想っていたことを。――
口に言われる言葉は恥らいを失う、
沈黙こそなつかしく貞潔な花。

言葉には出さずに解り合う対話!
愛のこもった無言のおしゃべりをしていると
時間は、夏の夜の、幸福のおののきで編まれた美しい夢の中でのように
信じ難いほど速く流れ去る。

私たち二人が(私の夢の中で)何を話したかは、尋ねてはいけません!
蛍にお訊きなさい、蛍が草にどんな光の言葉を話すかは。
波にお訊きなさい、波がせせらぎの中で何をざわめいているのかは。
西かぜにお尋ねなさい、何を忍び泣いているのかと。

紅玉(ルビー)にお尋ねなさい、その輝きで何を話しているのかと。
菫と薔薇にお訊きなさい、その薫りで何を物語っているのかと。
けれど、尋ねてはいけません、月の光の漾(ただよ)う中で
あの花とその花の死んだ恋びととが、どんな睦ごとを話したかは。

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