2017年5月23日火曜日

「病牀六尺」の力⑤

「しとね」にあっても、ハイネは詩を書き続けました。先日、冒頭にあげた詩はまさに、そうした「しとねの墓穴」の〝産物〟ということになります。ならば当時のハイネは、どんなふうに詩を書いていたのでしょう。

井上正蔵によると、彼が創造した作品の数々は、当時もはやペンで書くことが困難になっていたため、不自由な手に鉛筆を握って、大きな白紙の上か、あるいは薄い二つ折版のノートに書きしるしたものが多く、原稿に残された大きな文字の筆跡は、麻痺や苦痛のあとをまざまざととどめているそうです。


1849年冬から50年夏までハイネの秘書的な役目をしたヒレブラントという人は、次のような証言を残しています。

「朝になると、いつも詩は出来上がっていました。それからいよいよ彫琢がはじまり、これが数時間も続いたのです。このあいだ、ちょうどモリエールが下婢ルイゾンの無学を利用したように、ハイネはよく私の若さを利用し、ひびき、音の抑揚、明晰などの点について、あれやこれやと私に助言を求めました。現在や過去の使いわけはことごとく厳密に考慮され、ふつう用いられない古語は、まずその適用の可否を吟味し、略綴はことごとく淘汰され、冗漫な形容詞はことごとく取除かれ、投げやりの箇所は随所に書き改められるのでした」

陰鬱なパリの夜、死の世界に彷徨しながら、天才詩人が心血を注いだ稀有の創造のいとなみが続けられていたのです。

「しとねの墓穴」で書かれた詩集『ロマンツェーロ』=写真、wiki=は、前例のない反響をおこし、1カ月足らずのうちに20000部が売れたといわれます。

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