2017年5月22日月曜日

「病牀六尺」の力④

先日の年表でも触れましたが、ハイネが実際に亡くなる10年前、1846年8月7日の「ドイツ一般新聞」に、どういうわけかハイネ死すとの〝誤報〟が載ります。

その後まもなくハイネと会ったエンゲルス(Friedrich Engels、1820-1895)=写真、wiki=の手紙には「あの気の毒な人はひどく衰弱している。骸骨のようにやせている。脳軟化症が拡大し、顔面の麻痺も同様。……あの人は肺病もしくは急性脳病で死ぬかもしれぬ」(9月16日ブリュッセル共産主義通信委員会あて書簡)とあります。


それでも当時はまだ、ときどき外出することは出来たようですが、1848年以降は、そうした体力も衰え果ててしまいます。

48年1月19日、母に送った手紙には、イギリスの新聞がまたも自分が死んだと報じたことを伝えながら「私の早死は非常に惜しまれました。ドイツの諸新聞の四分の三ぐらいも、私が死んだことになっています。もうそんなことには慣れっこなりました」と書いています。

死んではいないものの、生きていることが不思議なほど病状は悪化していたのです。ハイネは、もはや社会的生活をつづけることの出来ない、いわゆる肉体の廃人でした。そしてこの年の5月のある日が最後の外出となるのです。

『ロマンツェーロ』の後記に「かろうじて、私はルーブルまで足をひきずっていった。讃仰された美の女神、われらのミロの女像が台の上に立つ、あの崇高な室に入ったとき、私は、くずおれんばかりであった。その足下に伏して、私ははげしく泣いた。一塊の石さえ、あわれみをもよおさんばかりに。女神も慈悲ぶかく見下ろされたが、悄然として、お前にもわかるだろうが、私は腕がないから助けることが出来ないと云おうとしているかのようであった」と告白しています。

これから没するまでの八年にわたり、病床に釘付けされたような状態で生きることを強いられる「生きながらの死、生にあらざる生」(1848年9月17日マキシミリアン・ハイネ宛)、いわば「しとねの墓穴」に横たわらねばならなくなったのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿