2017年5月20日土曜日

「病牀六尺」の力②

ハイネは1797年12月、デュッセルドルフのユダヤ人家庭の長男として生まれました。ボン大学でA・W・シュレーゲル、ベルリン大学でヘーゲルの教えを受けて作家としてスタート。

『歌の本』などの抒情詩を初め、旅行体験をもとにした紀行や文学評論、政治批評などジャーナリスト的な活動も繰り広げていきました。

ところが著作中の政治や社会への批判によって次第にドイツ当局の監視の目が強まり、1831年にはパリに移り住むようになります。ここで多くの芸術家たちと交流を持ち、若き日のマルクスとも親しくなりました。

ハイネはロマン派の流れにありながらも、政治的な動乱の時代にあって批評精神に富んだ風刺詩や時事詩もたくさん発表しています。

平易な表現によって書かれたハイネの詩は、さまざまな作曲者によって曲が付けられ、とりわけ『歌の本』の詩からは多くの歌曲が生まれました。

なかでも一八三八年にフリードリヒ・ジルヒャーによって曲が付けられた「ローレライ」は広く知られ、ナチス時代にはハイネの著作は焚書の対象になったものの、この詩だけは作者の名前が抹消されて歌われました。

そんなハイネの晩年は、貧窮に喘ぎながら、寝たきりの壮絶な闘病生活を送ったことで知られています。それがどんなものだったのか、井上正蔵『ハインリヒ・ハイネ』(岩波書店)の年表をもとにたどってみることにしましょう。


1831年 5月、終生までの住処となるパリに移る。
1837年 晩夏に盲目にならんばかりに眼疾を患う。
1838年 年末に視力が再び減退し、口述代筆を余儀なくされる。
1839年 眼疾も、肉体疲労も進行。
1840年 『ベルネ覚書』を発表。肉体の疲労感、ますます激化。
1841年 年頭から眼疾起こる。マチルドと結婚。九月、ザロモン・シュトラウスと決闘。
1843年 春から激しい頭痛、左半身の感覚麻痺、視覚も錯乱。二五歳のマルクスと親交。
1844年 時事詩「貧しき職工たち」を発表。『新詩集』を刊行。眼疾、激しく起こる。
1845年 1月から左目はほとんど閉じ、右目も曇る。前年末の叔父ザロモン・ハイネの死去で、親族間で激しい遺産争いが起き、1847年に甥のカールがハイネを訪れて合意するまで続いた。このころから麻痺が悪化。
1846年 顔面麻痺が甚だしく、骸骨のように痩せ衰える。9月に訪れたエンゲルスが死を予感。ドイツでハイネ死去の誤報が流れる。
1847年 病状は好転せず。訪ねたラウペが、痩せ衰え、なかば盲いた姿に愕然とする。
1848年 重体となり脊髄病患者として入院中に2月革命勃発。体半分が動かなくなり、5月のルーブル美術館訪問を最後に寝たきり。いわゆる「しとねの墓穴」の生活が続く。6月、遺言状を書く。
1849年 「神の両足動物ではなく、死病につかれた不幸なユダヤ人」として、不安と絶望のうちに日々を過ごす。モルヒネを飲んでのかろうじての睡眠につく夜毎だったが、すばらしい詩のリズムが生まれたという。
1850年 病気のために出費もかさみ、生活は困窮。
1851年 『ロマンツェーロ』を刊行。4カ月で5000部ずつ4版。11月、遺言状を書く。
1852年 病勢は好転せず。ルイ・ナポレオンが帝政を宣告。
1853年 6月、かつての恋人テレーゼが訪れ、痛苦に堪えて生きる姿に驚嘆する。
1854年 「遺言断片」が書かれる。クリミヤ戦争勃発。
1855年 「ムーシュ(蝿)」と呼ばれたエリーゼ・クリニッツがたびたび訪問。
1856年 2月17日、吐血に襲われ死去。胸に花束をのせてもらい「花! 花! ああ、自然は美しい!」と言った。58歳。

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