2017年5月17日水曜日

北村太郎「五月の朝」⑫

  うん開港記念日だな あさって
  ブラスバンドいっぱいの陽を浴びて
  塩っからい堤防のマーチを街じゅうに轟かすだろう

そんな横浜で独り暮らしをしていた当時、たまにぶらぶらと出かけていく港が、太郎にとって気持ちの拠り所であり、詩を生むのに欠かせない場だったのではないでしょうか。


「きょう、港にいってきた。梅雨の晴れ間の日曜日。たいそうな賑わいだったな、やました公園は。

あの世が信じられないぶん、この世が信じられない、あるいは、あの世が信じられるだけ、この世が信じられる等々、つまり彼岸と此岸がバランスを保ってるとするのは人間の考えの癖であって、くせという字が病いだれであるように、これは精神の病気だ。

でも、これは痼病であるから治る見込みはない。ご大層なものは死んだ、とずいぶん昔、いわれたが、痼病だから治るわけがない。

ご中層、ご小層がしゃしり出ているだけの話である。そして、精神はちっとも変わらない。せいぜい秤〈はかり〉がこちら側に少々かしいでいるくらいの景色が当今の流行なのだ。

港は手をつなぎあった若者が多かった。それに家族づれ。子どもたち。老人はあまりいない。氷川丸と大桟橋のあいだに挟まれた海側に数百メートルの遊歩道があって、人びとはベンチに腰かけたり、ゆっくり歩いたりして、たいていは目を海に向けている。

いなかの海岸や浜には自然しかないけれど、港には文明がある――といいたいところだが、きょうは大桟橋に船が入ってなくて、いささか淋しい。遊歩道から海へ半円形に突き出ているところがあって、そこの低いフェンスに足をかけて、しばらく海を見ていた。

そのうちに船員を沖合に碇泊している貨物船に運ぶらしい艀〈はしけ〉が、大桟橋手前の舟だまりから出て、右の港口の方向を目ざしていく。かなりスピードを出していて、舳先〈へさき〉が突っ立っている。艀に視線をとめていると、こちらのからだが右から左へ動いていく。

駅で停まっている電車に乗っていて、隣り車線の電車が動きだすときの感じと似ているが、こちらが船でなく、海に乗ってるという感覚は独特である。艀が遠ざかるまでいくらも時間はたたなかったはずだが、とてつもなく長い時間のように思われ、また、このうえもなく貴重な数分のようにも思われた。

だから、もう日の暮れが近く、梅雨どきにしては爽やかな風を吹き送りつづけていた雲が少し切れて薄いオレンジ色の陽が斜めにさしてきても、半袖シャツではさすがに寒くはあったものの、もう一隻、こんどはPILOTと船腹いっぱいに白いペンキで記してある小船が先刻と同じ舟だまりから沖へ向かいだしたときには、やはりそれに視線をとめないわけにはいかなかった。

海のうえに立っていて、絶えず一方向へ動いていながら、からだはこの世のものではない気分。生と死のあいだの快楽そのもの。死の瞬間がこのようであれば、と願わないではいられなかったが、それこそこちら側のまぼろしだろう。生きるのはむずかしいけれど、死ぬのもまたなかなかめんどうな仕事ではないか」(「あの世の微光」1986年6月『現代詩手帖』)。

これを書いたころから、太郎は健康を害するようになります。咳がとまらず、頑固な鼻血に悩まされます。1987(昭和62)年、虎の門病院の精密検査で、血液のがん、多発性骨髄腫と診断されのです。発病から半年、長くても2年という死の病でした。

翌1988(昭和63)年に、田村隆一と和子は離婚。12月には、鎌倉の和子の家に転居しています。太郎は66歳。この年の10月に詩集『港の人』を出しました。同詩集には1~33と番号がふられた33篇が載っているが、その16番目をあげておきましょう。

  おなかをこわす
  からだをこわす
  という
  肺をこわす、とか
  頭をこわす、なんていわない
  どうしてかな、と考えながら開港資料館の前を歩いていく

  ぼくの骨髄は
  寒暖計で
  それがきょうはずいぶん低いとおもう
  水銀は腰のあたりか
  うつむいて歩いていると
  枯葉がすこし舞って、しつっこくついてくる

  こんど恋人にあったら
  たましい、こわしちゃってね、っていってやろうか
  つぶやきながら
  枯葉をけっとばし
  愁眉をひらく
  検疫所のビルの八階に喫茶店があるのを発見したのは
  あれは
  冬の始め
  きょうみたいな寒い日で

  エレベーターを降りながら
  いいとこみつけた、と喜んでいた
  きょうも
  そこへ昇って、にこにこしていよう

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