2017年5月13日土曜日

北村太郎「五月の朝」⑧

まずは「あっこをいつまでもだいていたいぼくのかわいいひとよ」という折句を組み込みます。

そして、思いつくままの言葉を横へ横へととテンポよく連ねてゆきます。

「五月の朝」を書いているのは、毒のない「愉快犯」かもしれません。

そこに出てくるのは、「バターをパンに塗る/コーヒーいい匂い/新聞をつぎつぎに読む」ごくふつう日常。

最近のできごとであり、街で起こった事件です。

  朝
  コップがひかる
  水がこぼれる
  バターをパンに塗る
  コーヒーいい匂い
  新聞をつぎつぎに読む 放火!
  愉快犯とは まったくすばらしい単語だ
  三方の窓のそとでヒヨドリたちが
  あまい声で啼くのもすてきだ
  うん開港記念日だな あさって
  ブラスバンドいっぱいの陽を浴びて
  塩っからい堤防のマーチを街じゅうに轟かすだろう

すでにみたように、このころ太郎は「金はないけれど」も気ままで楽しい「独身」生活を送っていました。住んでいたのは、海に近い横浜市中区大芝台の「六畳と三畳二間のアパート」です。

詩が発表された1983(昭和58)年、横浜では、21世紀に向けて街の命運を賭けた巨大な都市開発がはじまっています。横浜都心部の一体化と強化をめざしたウォーターフロント「横浜みなとみらい21」事業です。

面積186ha、うち埋め立て部が76ha。ランドマークタワーや日産本社ビルなどオフィスビル開発を進める中央地区、コスモワールド、赤レンガ倉庫などがある新港地区、そごうやスカイビルがある出島地区があります。現在では、就業人口が10万人近くになるそうです。


「うん開港記念日だな あさって」。「横浜みなとみらい21」はその後、横浜開港祭のメイン会場にもなりました。三角関係に疲れ、横浜に住むようになったのにはいろんな要因があったのでしょうが、きっと太郎は体質的に港町が肌にあっていたのでしょう。

「五月の朝」を書く20年以上前に、「のんきな詩であるが、わたくし自身、この作品には割りと愛着がある」という「ヨコハマ――1960年夏」という次にあげる詩を作っています。

  きたない海だ 洪水の河口のように
  ミルクコーヒー色だ おまけに
  ビニールの袋や藁屑や、いかがわしいものが浮かんでいる ぼくは
  がっかりしてガムをかんだ だが

  やっぱり港はすてきな光りと響きだ 真夏の
  青空の下の、たくさんの貨物船はすばらしい威厳だ おお
  おびただしい国よ欲望よ法律よ!
  ペンキを塗りかえたばかりの緑色の船と
  貝殻のこびりついた、錆びた船とが
  ひとつのブイに繋がれている
  そのもやい網のむこうの白灯台と赤灯台のあいだからは
  水色のタグボートにひかれて、鼠色のタンカーが入ってくる

  いっぱいに絞った写真のように
  オレンジ色や茶色のマストが重なりあい
  かもめたちの残像のあとに、ドックのクレーンが迫ってくる
  リベットを打つ音、テナーサックスがあくびする汽笛、バースの
  いつも陰気な岸壁を、猫のようになめている
  波の舌、大桟橋から街へ
  フルスピードで走っていくタクシーの
  熱いゴムのきしり……車には、小麦色の
  かわいいオンリーが、シガレットをふかしていた だが

  やっぱり港はいい匂いだ チーフ・オフィサーの白い制服も
  過重労働の若い荷役人夫のグリースくさい汗も
  みんなすてきにロマンチックだ
  (こどものとき、配管工か
  貨物船のかまたきになりたいと思ったことがあった)
  ぼくは満足してガムをほきだし、ポケットからサングラスを出して
  かけた そしてマストの信号旗や
  煙突のマークを、もういちど
  ゆっくり観察しはじめた

〈当時、わたくしは三十七歳だった。しばらく詩を書かないでいて、なぜ「ヨコハマ」を書く気になったか、よくは思い出せないが、そのとき勤めていた会社の休みの日に、妻と子ども二人を連れて横浜の港へ遊びに行った、その印象が強かったのではないかと思う。

子どもたちはまだ小学校にも上がっていなかった。わたくしたちは(今でもあるが)港内巡覧船に乗って、港を一巡した。わたくしは滅多に旅行をしないし、街で遊ぶ以外に、外出や散歩もほとんどしないが、夏の横浜以降、港が好きになった。

十年くらい前だったが、元日か二日の寒い日に一人で港内巡覧船に乗ったことがある。さすがにこの日は寒風吹きすさんで、壮烈な港見物だったが、それでもけっこう楽しかった。〉(北村著『詩を読む喜び』)

*写真は、「みなとみらい21と富士山の夕景」(ウィキペディアから)

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