2017年4月27日木曜日

中原中也「早春散歩」⑦

    春の雨

  昨日は喜び、今日は死に、
  明日は戦ひ?……
  ほの紅の胸ぬちはあまりに清く、
  道に踏まれて消えてゆく。

  歌ひしほどに心地よく、
  聞かせしほどにわれ喘〈あえ〉ぐ。
  春わが心をつき裂きぬ、
  たれか来りてわを愛せ。

  あゝ喜びはともにせん、
  わが恋人よはらからよ。

  われの心の幼なくて、
  われの心に怒りあり。

  さてもこの日に雨が降る、
  雨の音きけ、雨の音。


長谷川泰子が小林秀雄のもとにに走った後も、詩作を中断することはありませんでした。むしろ、前に見た「朝の歌」にみられるように、この事件以降、中也は詩人になったといえるかもしれません。

そして、1927(昭和2)~1928(昭和3)年に中也は第一詩集を出そうと試みました。結局、その計画は実現しませんでしたが、「春の雨」はその詩集に入れるつもりで書かれた詩の一つです。

そんなさ中の昭和3年5月、泰子と小林の関係も破綻します。原因は泰子の神経症だったようですが、事は相当に深刻で、小林は関西へ単身逃げ出しました。

泰子は心情というものがまったく欠如している女だという内容の手紙を、小林は妹に送っています。それからの彼らについて、吉田凞生の「中原中也小伝」には次のように書かれています。

〈しかしそういう泰子が、中也の目には「私の聖母」と映ったのだから、異性関係というものは分からない。中也にしてみれば、泰子は自分のところへ帰ってくるべきなのだが、泰子の方は承知しない。

それどころか、山川幸世という左翼の演劇青年の子供を産んでしまう。中也はその子に名を付けてやり、泰子が映画女優として仕事に出る時は、お守りをしてやったりする。子供に対する特別な感情の現れである。

この間、中也は河上徹太郎、大岡昇平、安原喜弘、内海誓一郎らと同人誌「白痴群」を創刊する。昭和四年四月のことである。誌名は「俗物になれぬバカの集まり」という意味である。

初めて自分の詩を世に問う舞台を得た中也は、活発に詩作し、毎号作品を載せた。その中には「寒い夜の自画像」のように詩人としての使命感を示す詩もあれば、「時こそ今は……」のように泰子に対する再求愛のメッセージを含んだ詩もある。

人間には日常の利害打算よりもっと価値のある、普遍的な幸福というものがあり、愛というものがある、というのが詩人中也の信念だった。

しかし「白痴群」は一年で廃刊となった。原稿の集まりが悪くなったためである。そして廃刊を機に、中也の詩作も停滞し始める。

フランス行きの手段として外務書記生の試験を受けることを考え、東京外語に通い始めたりしている。小林秀雄が新進評論家として活躍し始めたのと対照的である。昭和六年、弟恰三が病没したことも中也には衝撃だった。

死者は清純で、生き残った自分は図々しい、という自責の念が中也を悩ます。『山羊の歌』の最後の二篇、「憔悴」「いのちの声」には、生命の停滞感とそこから脱出したいという願望が見える。

中也がそのために選んだのは、詩集を出版することだった。昭和七年(一九三二)、中也は『山羊の歌』を編集し、家から三百円を引き出して、自費刊行を企てる。

だが資金が続かず、本文を印刷しただけで中断せざるを得なくなった。それも一つの引き金となったのか、年末にはノイローゼ状態となった。強迫観念に襲われ、幻聴があったという。

しかし年が明けて昭和八年になると、精神状態は徐々に平衡を取り戻したらしい。この年三月、東京外語を修了。秋、遠縁に当る上野孝子と見合いをし、十二月に郷里山口で結婚した。中也は珍しく素直だったと伝えられている。

新居は四谷区(現在の新宿区)の花園アパートで、同じアパートに小林秀雄との共通の友人、青山二郎がいた。同じ十二月、『ランボオ詩集《学校時代の詩》』を三笠書房から刊行した。中也はまずランボーの翻訳で認められたのである。〉

「早春散歩」はこの年の早春、中也の精神状態が平衡を取り戻しつつあったころ書かれたと推定されています。

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