2017年4月25日火曜日

中原中也「早春散歩」⑤

同棲していた長谷川泰子に逃げられた翌年の1926(大正15年・昭和元)年4月、中原中也=写真、wiki=は日本大学予科文科へ入学するものの9月に退学。11月ごろには、アテネ・フランセへ通います。


1928年(昭和3年)5月には父謙助が死去。中也は喪主でしたが、葬儀に帰省参列はしませんでした。このころ小林秀雄は、長谷川泰子のもとを去っています。昭和4、5年に書かれたとみられる「我が生活」という題の草稿には、次のようにあります。

〈私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶(みつ)めることが出来てゐたのと確信する。

つまり、私は自己統一ある奴であつたのだ。若(も)し、若々しい言ひ方が許して貰へるなら、私はその当時、宇宙を知つてゐたのである。

手短かに云ふなら、私は相対的可能と不可能の限界を知り、さうして又、その可能なるものが如何にして可能であり、不可能なものが如何に不可能であるかを知つたのだ。私は厳密な論理に拠つた、而して最後に、最初見た神を見た。

然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はたゞもう口惜(くや)しくなるのだつた。――このことは今になつてやうやく分るのだが、そのために私は嘗ての日の自己統一の平和を、失つたのであつた。全然、私は失つたのであつた。

一つにはだいたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしてゐず、術語だの伝統だのまた慣用形象などに就いて知る所が殆ど皆無であつたので、その口惜しさに遇つて自己を失つたのでもあつたゞらう。

とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである! 私はたゞもう口惜しかつた、私は「口惜しき人」であつた。〉

「口惜しき人」の意味合いは、単に女に逃げられた、友人に裏切られたというところにとどまりません。先行きも希望も見えない、名伏しがたいものを生きていく「口惜しき人」になったのです。それは、中也が、詩人になった瞬間であったのかもしれません。

1931(昭和6)年4月、東京外国語学校専修科仏語部に入学。この年の9月には、日本医科大学の学生だった弟の恰三が病死しています。中也は、その直後、次のような弟の追悼詩を書いています。中也が24歳のときです。

      死別の翌日

  生きのこるものはづうづうしく、
  死にゆくものはその清純さを漂はせ
  物云ひたげな瞳を床の上にさまよはすだけで、
  親を離れ、兄弟を離れ、
  最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

  さて、今日はよいお天気です。
  街の片側は翳〈かげ〉り、片側は日射しをうけてあつたかい、
  けざやかにもわびしい秋の午前です。
  空は昨日までの雨に拭はれてすがすがしく、
  それは海の方まで続いてゐることが分ります。

  その空をみながら、また街の中をみながら、
  歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
  さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
  みたばかりの死に茫然として、
  卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

この詩を読んでいくと、季節の違いこそあれ、詩のかたちも味わいも「早春散歩」とよく似たところがあることに気がつきます。

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……

中村稔は〈早春と秋という季節のちがいはあっても、散歩しながら心のなかにふきあげてくる感傷を描いている〉という点で両作品は似ており〈「死別の翌日」の呼吸、声調が、そのまま「青春散歩」にひきつがれている〉(『国文学』昭和52年10月)。



さらに、大岡昇平は「死別の翌日」の〈個人的感情の直截な表出から、より普遍化された詩想への展開〉が「早春散歩」(「神と表象としての世界」)と指摘しています。

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