2017年4月23日日曜日

中原中也「早春散歩」③

中原中也(1907―1937)は、1907(明治40)年4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)に父柏村謙助、母フクの長男として生まれています。

父謙助は当時陸軍軍医として旅順にいました。1909(明治42)年、父謙助の転任にともなって広島へ、その後、金沢へと移り住みます。

1914(大正3)年3月、父謙助が朝鮮龍山(現ソウル市)聯隊の軍医長となったため、家族は山口に戻ります。1915(大正4)年1月、弟の亜郎が病死。その死を歌ったのが最初の詩作だと、中也は後に書いています。

8月、父謙助は山口に帰任。10月には中原家との養子縁組を届け出て、一家は中原姓となりました。1917年(大正6)年4月、父謙助は願によって予備役に編入され、中原医院を受け継ぐ。

1920(大正9)年2月、『婦人画報』と『防長新聞』に投稿した短歌が入選。4月には県立山口中学(現山口県立山口高等学校)に入学しましたが、このころ読書に目覚め、次第に学業を怠るようになります。

1922(大正11)年5月、友人2人とともに私家版の歌集『末黒野』を刊行。中に、「温泉集」と題して、28首を収めました。「防長新聞」に好意のある批評が載っています。

1923(大正12)年3月、山口中学を落第し、京都の立命館中学第3学年に転入学しました。晩秋には、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒していきます。

その冬、ドイツ文学者の成瀬無極が主宰した小劇団「表現座」に所属していた女優、長谷川泰子(1904―1993)=写真、wiki=を知ることになります。


稽古場にいたとき、中学生がやってきて、ダダの詩の書いてあるノートを見せたのが、出会いの始まりだ、と自著『ゆきてかへらぬ』で泰子は述べています。

泰子は、広島市出身。英和女学校(現・広島女学院)を卒業。ひとり立ちして生きていこうと女優を志し、京都に出てきて、表現座で役者修業をしていました。しかし劇団は解散してしまったため、泰子は途方に暮れてしまいます。

「それなら、ぼくの部屋に来てもいいよ」と中也が言ったのがきっかけで、二人の同棲生活がはじまります。1924年(大正13年)4月のことです。

この年の7月、富永太郎が、上海に渡って永住しようという計画に挫折して、友人がいる京都へ遊びに来ました。その際、中也と知り合い、2人はすっかり意気投合。詩を語り、ダダイストを論じあう仲になります。

そのころとについて、大岡昇平は『中原中也伝――揺籃』のなかで、次のように記している。

〈富永は殆ど毎日中原の部屋へ来て詩の話をし、下鴨の下宿へは寝に帰るだけだった。と当時中原と同棲していた長谷川泰子はいっている。富永二十三歳、中原十七歳、泰子二十歳である。

泰子はマキノ・プロダクションの大部屋女優で、撮影所へはあまり行かなかった。二人の食事を作った。しかし酒を出すなんて考えたことはなかったというから、二詩人のアルコール中毒は大して進んでいなかったと見倣していい。また金もなかった。〔中略〕

中原はこの前の年から高橋新吉の影響の下に、ダダイスムの詩を書いている。早熟の詩才は二人の大学生にとって驚異だったことは間違いない。

富永も大正十年から約十五篇の詩を書いているが、いずれも習作の域を出ず、模索時代である。中原は彼にとって、最初の詩人の友であった。

七月七日附の手紙に「ダダイストを訪ねてやりこめられたり」の句があるところをみると、中原は六歳年長の友に遠慮しなかったと想像される。しかし相互に影響の跡は、二人のその後の作品にはあまり見あたらない。〉

中也が「詩帖」と呼んだ詩篇ノートの最も古い一冊にも、「春」の詩が書かれています。推敲を重ね、中也が生きているときに出した唯一の詩集『山羊の歌』の冒頭に置かれることになった詩「春の日の夕暮」です。

     春の日の夕暮

  トタンがセンベイ食べて
  春の日の夕暮は穏かです
  アンダースローされた灰が蒼ざめて
  春の日の夕暮は静かです

  吁〈ああ〉! 案山子〈かかし〉はないか――あるまい
  馬嘶〈いなな〉くか――嘶きもしまい
  ただただ月の光のヌメランとするまゝに
  従順なのは 春の日の夕暮か

  ポトホトと野の中に伽藍は紅く
  荷馬車の車輪 油を失ひ
  私が歴史的現在に物を云へば
  嘲〈あざけ〉る嘲る 空と山とが

  瓦が一枚 はぐれました
  これから春の日の夕暮は
  無言ながら 前進します
  自〈み〉らの 静脈管の中へです

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