2017年4月15日土曜日

内戦へ③

「98年世代は識者としてもっともらしい助言はしても、実際の政治的な運動となるとポーズだけでするりと身をかわし傍観者の側に回る」 といった見方をされることがよくあります。「98年世代」のなかでもマチャードは、もともと政治運動にはきわめて消極的でした。

「わたくしという人間はもともと政党にはいって活躍するには何かが欠けているんです。だから一度も政党に加入したことはありません。いや、絶対に入るまいと決心しています。私の政治理念はいつだって変わりません。一般市民の自由な意志を代表している政府でありさえすれば、それが正当な統治機関であるとして受け入れるだけのことです」 。

さらに「現時点における芸術家のあり方」というテーマの対談で、マチャードは記者の質問に対して次のように発言しています。「政治というものはあらゆる領域を侵します。どんな片隅にうずくまっていても、政治力はわれわれの身にぴりぴりと及んできます。これから先、スペインにおいて政治が文化と一体となってぴったりと合致するようなことは滅多にありますまい。だから芸術家や知識人に忠告せねばならぬことは、政治にはできるだけ関与するな、それよりも自分たちで開拓する芸術や学問にもっと力を入れなさいとね」 。

それまでのマチャードの政治活動といえば、1926年にウナムーノらとともに「共和主義者同盟」に参加、1928年にはセゴビアで「人権連盟」の発足時の1人として名前を連ねた、といった程度に過ぎませんでした。しかし「98年世代」的な問題意識を突き詰めていけば当然、政治との接点は避けて通れなくなります。それに、時代は「政治には関与せずに自分たちで開拓する芸術や学問」だけに打ち込むことを許すような状況では到底なくなっていました。

1935年2月には「世界平和連盟」のスペイン支部が発足。マチャードはその声明書に署名しています。1936年には、ウナムーノをはじめ、バレ・インクラン、マエツら親しい文学者たちが次々に帰らぬ人となりました。血なまぐさい戦乱が起こり、持病の心臓病は悪化します。それでも、マチャードは懸命に仕事に打ち込みました。最後の著作となる『Juan de Mairena』は、1934年11月4日付のマドリードの日刊紙「Diario de Madrid」に初めて掲載され、この新聞が廃刊になると「El sol」の時評欄に受け継がれて1936年7月28日まで続きました。


1936年11月、国民派軍の爆撃にさらされ始めたマドリードにとどまって居ることはもはやできなくなり、マチャードは83歳の母アナや弟家族とともにバレンシアへ避難します。そのころレオン・フェリーペとともにマチャード宅を訪ねた詩人ラファエル・アルベルティ(Rafael Alberti Merello、1902~1999)は次のように書き残しています。

「のっそりと家から出てきた大きな体のマチャードの後ろには枯木のように痩せてひからびた年寄りのお母さんが寄り添っておられました。あんな小さくてひ弱な母親から彼みたいな大きな息子がどうして生まれたのか、とまどうほどでした。あの頃のマドリードの家庭では金持ちも貧乏人も区別はありません。燃料がまったく手に入らないから、どこの家でも部屋の中は凍てつくような寒さです。マチャードはマドリードからの退去を勧めに来た私たちの言葉を黙って悲しそうな顔で聞いていましたが、まだこの首都を見捨てる時期が来ているとは思えないんだとわれわれに答えました。

われわれ2人は、説得するためにもう一度訪ねて行かなければなりませんでした。強く彼を言い含めた結果、やっとマドリードを去ることを承諾してくれましたが、今度は持ち前のあの自尊心の強さと勿体ぶりからおめおめとマドリードを後にするのが恥だという気がしたらしく、1人では行かない、母や弟のホアキンやホセと一緒でなくては嫌だと駄々をこねました。われわれは彼の言い分に従うより仕方がありませんでした。弟夫婦2組と母を入れて家族全部で8人なんだ、頼むよ、と彼が言ったのを記憶しています」
 
こうしてマチャード一家は、バレンシアの郊外のロカフォルト=写真=という村の農家の小屋を借りて住むことになりました。マチャードの健康は、心臓の障害などでかなり衰えを見せていたものの、気力はまだまだ旺盛だったようです。1937年7月、戦禍のはなはだしいマドリードを避けて急きょバレンシアに会場が変更になった第2回国際作家会議には、避難民でごった返す町のなかを友人の車で会場へと駆けつけ、「文化の防衛と普及」というテーマで講演しています。

ちょうど、この会議が開かれたころ、グラナダでロルカが射殺されたというニュースが人々の耳から耳へと伝えられ、世界各国から集まってきていた文学者たちを驚かせ、激怒させました。

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