2016年4月7日木曜日

父の死

アントニオが成長していく間、父のアルバレスは近代的な民俗学を起こすために献身的な努力を続けていきました。

1878年に英国・ロンドンで世界初の民俗学会が設立されると、アルバレスはすぐに同じような学会をスペインでも作ることを決意します。

1881 年には、ドイツ出身の言語学者フーゴー・シューハルト(Hugo Ernst Mario Schuchardt、1842-1927)=写真、wiki=らの協力で、スペイン民俗学会に当たる「エル・フォルクローレ・エスパニョール(el folclore español)」を創設しました。


1881年11月には、「スペイン民俗学の組織的基盤」を発表。1882年には「エル・フォルクローレ・アンダルス(El Folklore Andaluz)」を設立し、各地に学会を作っていきました。

その後、アルバレスは経済的に逼迫し食べていけない苦境を脱するため、アメリカ大陸のプエルトリコ・ポンセへ財産登記人として単身、出稼ぎに行きます。1892年のことです。

ところが1年も経たずに病気のため帰国、セビリアへ戻ったものの、1893年2月に亡くなってしまいます。息子たちは、父の死に目に会うことはできませんでした。

アルバレスの死は、スペインの民俗学にとって大きな痛手となりました。アルバレスの死後、スペインの民俗学は衰退し、前にも触れたようにスペインではいまも、学問の一分野としてみなされていないに等しい状況にあります。

もちろん当時のアントニオら家族たちにとっても、その死の衝撃には計り知れないものがあったに違いありません。父の死が契機となって、マチャード兄弟のボヘミアン的な生活が始まります。

踊り手として知られたドーニャ・ビクトリア・ミネリ(Doña Victoria Minelli)の集まりに顔を出したり、自由教育学院の教授で言語学者のエドアルド・ベネット(Eduardo Benet)の主宰する政治や詩を論じる会に出入りしたり。

マチャードの演劇熱が高まったのもこのころで、劇団に所属して端役を演じたりもしています。さらに1895年、祖父が没すると窮乏はさらに深刻になり、叔父のいたグァテマラへ渡るという夢も消えていきました。

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