2016年4月18日月曜日

純潔で真正なるカスティーリャ

伝統にしばられて死んでゆく伝統主義者、それに伝統を否定しながらも何ら変えようとせずに欠伸をするだけの進歩主義者たち。

こうした「二つのスペイン」に対して「1898年世代」は、どのように割って入ろうとしたのでしょう。

エントラルゴはさらに次のように指摘しています。

「98年の世代は、このどちらの一方に対しても各自それぞれの流儀で、またそれぞれ異なった正確さをもって、新しい伝統主義、つまり初期時代の、もしくは中世の伝統主義を考え出した。彼らはカルデロンの伝統にはベルセオやホルヘ・マンリーケのそれを対立させ、近代の叙事詩にはロマンセーロを、そしてフランシスコ・デ・ロハスにはイータの僧正を対立させるであろう。

要するに98年の世代の作家たちはみな、独創的で純粋なスペインを夢見、そしてその存在論的条件の命ずるままに、人間――歴史的であり、したがって伝統的な存在たる人間――が有する、避けられない「過去の必然性」の支えをそこに求めたのである。

ここで問題になっているのは、歴史の王国に先立つ自由の王国というヘーゲル的な夢であり、そしてウナムーノが初期時代のカスティーリャのヴィジョンをこの架空の王国と同一視するのも偶然ではない。アントニオ・マチャードがサンルーカルで、泥水となってゆっくり流れるグアダルキビール河を眺めて歌ったことは、彼ら全員についても言える。

  緑なす松の根元の
  泡立つ澄んだ水よ
  お前は何と快い音を立てていたことか!
  しかしいま海辺に近く塩からい
  泥河となって、私のように
  お前は故郷の泉を夢見ているのか?
  
カスティーリャ、すなわちベルセオやイータの僧正の初期カスティーリャは、98年の世代の夢想家たちにとってはスペイン史の源泉であり、暁の清純と喜びをもって歌う、泡立つ澄んだ水であった。この純潔で真正なるカスティーリャこそ、98年の世代の人々が周囲の誇大表現から逃れようとして、初期時代の人々の素朴さと自然さを選んだときに密かに求めたものなのだ。」


「98年世代」は、いたずらにカトリシズムなど前時代の古いものから離反しようとしていたわけでも、単に伝統を全面的に否定する進歩主義者でもなかったのです。

「スペイン史の源泉であり、暁の清純と喜びをもって歌う、泡立つ澄んだ水」すなわち、昔からスペインの不変なものとしてある「純潔で真正なるカスティーリャ」を見いだそうとしました。

そして彼らは、文学の社会的性格、すなわち文学の使命の一つである、社会を啓発するための文学を持つべきであると強調しました。

何かを求めるためには、現実をじっくりと見据える必要がある。その現実把握の手段として、目の前にある町や風景を克明に写し取る。そして過去、現在を批評し、そこからスペインのよき伝統、本来の良さをくみ取り、外国の知識を吸収しながら自分たちの国を再発見していく。

こうして得られたものから、正しいことは正しいと受け入れ、間違っていることに対してはあくまでも抗議して、社会の人々に伝えていく。彼らは、そんな使命を感じていたのでしょう。

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