2016年3月30日水曜日

「遅れてしまった国」の詩人

スペインはカタルーニャ語、ガリシア語、バスク語などヨーロッパでも有数の多言語国家ですが、カスティーリャは、国全体の共通語であり、『ドン・キホーテ』が書かれたスペイン語(カスティーリャ語)が発祥した地でもあります。

カスティーリャ王国が発展し、カスティーリャ王権がその後の統一スペインにおいて中心的役割を果たしたため、カスティーリャ地方で話されていたロマンス語が国家の言語となったわけです。

言語と文学を絆とした共通の国民文化を土台にして、国家としての統一を果たしたドイツ。それに対してスペインでは、ようやく史上初の共和政を実現しても「共和国スペインはわずか数ヶ月に熱狂的な地方分立主義運動の渦の中に呑まれてしまった」 のです。

そして1898年、国家の破局的な事態にいたたまれずに立ち上がった、進歩的であるはずの知識人たちですら、スペインとは何かを問い「カスティーリャに心酔」 するところからはじめるよりほかにはありませんでした。


なんとも歯がゆく、後ろ向きで現実から遊離した行動のようにもみえますが、逆に、当時の知識人たちがそうしたベクトルをもって模索し、言葉をつむぎ出さざるを得なかったところにこそ、ヨーロッパ近代から取り残され、国民国家の形成でも異質な道を歩まなければならなかったスペインという国の本質が隠されているように思われます。

「98年世代」の活動は結局のところは、人々の間に深く浸透することも、社会的に大きな反響をもたらすこともなく、「挫折」といってもいい結果に終わります。

しかし曲がりなりにも「第2共和国から内戦期の1930年代は、文化の高揚期であった。第2共和国は“知識人の共和国”といわれたほど、知識人が政治に積極的にコミットした」 スペインでは稀有な時代であり、「98年世代と呼ばれるこの世代の作家たちによって、現代文学が始まったといっても過言ではない」 と位置づけられるように、文学的な意味あいは決して小さくはありませんでした。

他方で「98年世代」は、メディアが世界的に大きな変動を見せる時代とも重なっていました。19世紀後半には、電信、電話、海底電線の発達で、情報が迅速に伝達できるようになりました。

帝国主義の時代、政府や企業家は、世界各地の経済情報をいち早く正確につかむのにそれを利用した。テレビはなかったが、ラジオは実験段階に入っていました。そして、アメリカのイーストマン・コダックが競馬の判定のために開発した早撮カメラの登場、印刷技術の向上などによって、写真など映像報道の分野が新たに形作られていきます。

そんな当時の、情報や思想の大衆へのほとんど唯一の媒体(マス・メディア)は新聞でした。印刷技術の進歩は「日刊紙」を誕生させます。19世紀の終わりにアメリカで開発された高速輪転印刷機は、1時間に数万部の紙面を刷り、裁断、折たたみの能力まで備えていました。

都市への人口の集中、移民など民衆の国境を越えた移動、義務教育制度の普及、大衆の生活水準の向上などとともに商業新聞は普及しました。女性や子どもを含め、だれでも買える新聞や雑誌の普及は、商業ジャーナリズムを確立させ、職業人としてのジャーナリストを形成したのです。

人びとは、居ながらにして各地のニュースに接することが可能になり、「世界」に目を開くようになりました。

とはいえ、それはイギリスや米国などのことであって、近代の洗礼をあびていないスペインの、満足に文字も解せず、政治への関心も薄い地域の庶民たちは、それとは無縁に近い状態であったに違いありません。

古くは、中世スペインで活躍した騎士を描いた叙事詩『わがシッドの歌(Cantar de mio Cid)』を語り伝えた吟遊詩人たちのように、わが詩人アントニオ・マチャードの時代にはまだ、歴史で起こる出来事を記録して伝え、さらにはゲーテのように国民を結び付ける言語文化の担い手となることが、詩人に求められていたのです。

さて、「遅れてしまった国」のこうした困難な時代に居合わせたマチャードが、詩人としてどんな人生をおくっていくことになるのか。次に探っていきたいと思います。

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