2016年3月23日水曜日

二つの「道程」⑪

1945年から1950年までに書かれた作品を集めた高村光太郎の詩集『典型』の序には、戦時下における表現活動に対する自責の念が強くこもった、次のような文章があります。

 「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たわけと言われつづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによつて自己を明らかにしたい念慮に燃えた。私はその一切の憎しみの言葉に感謝した。私の性来が持つ詩的衝動は死に至るまで私を駆つて詩を書かせるであろう。そして最後の審判は仮借なき歳月の明識によつて私の頭上に永遠に下されるであろう。私はただ心を幼くしてその最後の巨大な審判の手に順うほかない」。

一方、レオノールを失ったマチャードはその後も教師として、次第に動乱が激しさを増す国内を転々とします。

1931年4月に第二共和国政府が発足したころには各地で労働者や教員らのストライキが慢性化。爆弾騒ぎやテロも日常茶飯事となり、共和政府転覆を目指した軍事クーデターも起こりました。

そうした中、マチャードも、共和派の立場からさまざまな言動を発していきますが、スペイン内戦に突入した1936年には、爆撃にさらされたマドリードに居られなくなり、高齢の母たちとバレンシアへ避難。

1938年には、バルセロナに移り、その後、フランコ軍によるバルセロナ制圧に備えて貨物列車でフランスへと渡ります。


しかし、病と疲労が重なり1939年2月22日、滞在していたフランスの小さな町コリウール=写真、wiki=のホテルで息をひき取ります。63歳でした。

かつては〝太陽の沈まない国〟とまでいわれながら「ピレネーの向こうはヨーロッパではない」とまで落ちぶれてしまったスペインの詩人の「Camino」。

「きわめて長い間、近代文明から隔離されてそれなりの文化を成熟させて来た」(丸山眞男「近代日本における思想史的方法の形成」)という日本の芸術家の「道程」。よく似たこれらの詩は、いまも国民たちに広く親しまれ、読みつがれてきています。

それは、「自然を信じ、自然に即して進もうとする人間の決意をうたい、そして自然の加護を念願する」(吉田精一『声で読む 現代詩』)といった、人類の普遍的な思想をうたいあげているからでしょう。

と同時に、近代ヨーロッパを追いかける立場に置かれながらも、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」ときっぱりわが道をわが足で歩もうとする「近代文明から隔離されて」きた国の詩人たちの強い意志が、共鳴されてきたあらわれと見ることもできるのではないでしょうか。

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