2016年3月16日水曜日

二つの「道程」④

ところで、高村光太郎(1883-1956)の、「Camino」より一行短い「道程」は1914(大正3)年2月、光太郎30歳のときに作られた。『カスティーリャの野』は1912年6月の出版だから、だいたい同じころの作品と考えていいでしょう。

マチャードが「近代」から取り残された挫折感から出発せざるを得なかったとすれば、光太郎は西洋との間の大きな溝を克服しなければならない時代に置かれていました。

20代半ばの3年間、光太郎はアメリカ、イギリス、フランスへと留学しています。

その著「父との関係」によると、「アメリカの一年半は結局私から荒つぽく日本的着衣をひきはがしたに過ぎず、積極的な『西洋』を感じさせるまでは至らなかつた。その『西洋』を濃厚に身に浴びざるを得なかったのが、一年間のロンドン生活であった」といいます。

そしてフランスへ渡った光太郎は、当時の日本の庶民には望むべくもなかった「自由を口にする」庶民や「解放された庶民の生活」に「文化のいはれ」を見て取ったものの、どうしようもない日本とフランスの文化の落差を感じます。1910年代の日本の現実と激しく対立する遠因が、ここに明確な形をとることになる。

光太郎は「国籍をまつたく忘れる時間が多かった」というパリにあっても、人種の壁を越えることができませんでした。

「そのうちパリに居ることに疑問を持ちはじめた。モデルの体を写生しながら、これは到底わからないと思ふようになつた。虎を見てゐるやうな気がした。対象の内部がどうしてもつかめない。これが日本人のモデルならもつとしん底から分るだろうと思ひ出した」(「父との関係――アトリエにて 2・3・4――」)のです。

ちなみに光太郎は、オーストリア出身の詩人、リルケ(Rainer Maria Rilke、1875-1826)が以前住んでいた建物にアトリエを借りていました。

光太郎もリルケもパリに住む「近代彫刻の父」ロダン(François-Auguste-René Rodin、1840-1917)=写真、wiki=を敬愛し深い影響を受けますが、2人のロダンへの接近の仕方には大差がありました。


「Rodin war einsam vor seinem Ruhme .Und der Ruhm ,der kam ,hat ihn vielleicht noch einsamer gemacht .(名声があがるま え、ロダンは、孤独であった。だが、やってきた名声は、ロダンをいっそう孤独にしたことだろう)」 ではじまる有名な「ロダン論」を書くとともに、その詩作にも大きな影響を受けるリルケは、1902年9月から頻繁に親しくロダンのアトリエを訪れていました。

それに対して光太郎の行動は、なんとも臆病でぎこちないものでした。「ロダンへの浸水は相変わらずだった。しかし、展覧会場などでは時々姿を見かける大家に話しかける度胸も、パリのアトリエを訪ねていく勇気もなかった」(湯原かの子『高村光太郎――智恵子と遊ぶ夢幻の生』)のです。

同じ外国人であっても、隣国のヨーロッパ人と、アジアの訪ね人では、その距離感には大きな隔たりがあったのでしょう。

欧米への留学から帰った光太郎は、「パンの会」など若い芸術家たちとの集まりに顔を出しては、談笑や論争、酒を飲み交わすなどして青春を爆発させていきます。

「あの頃、万事遅蒔な私は外国から帰つて来て、はじめて本当の青春の無鉄砲が内に目ざめた。其が時代的に或る契合点を持つてゐた。前からあつたパンの会に引きずり込まれたのは自然の事であつた。細かい事は大抵忘れた。又忘れてもいいのだ。通り抜けて来た事は私にとつて一つの本能の陶冶になつた」(「パンの会の頃」)と光太郎は回想しています。

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