2016年3月26日土曜日

イサベル2世から「革命の6年」へ

「太陽の沈まない国」となったスペインですが、その隆盛は長くは続きません。1588年のアルマダ海戦で自慢の無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると、イングランドは国力を急速に高めて17世紀後半には史上最大の領土を手に入れます。

一方でスペインは、衰退の一途をたどっていくのです。1640年にはポルトガルが、そして80年戦争でネーデルラント連邦共和国(オランダ)が独立。スペインは「最初の国際戦争」ともいわれる30年戦争に介入しますが、こちらのほうも敗退します。

1659年にはフランスとの間で、不平等条約のピレネー条約を締結、スペインの黄金世紀は終わりを告げました。それでも、アメリカ大陸など海外の支配地域のほうは成長を続け、いわば「植民地」大国としての地位は、かろうじて19世紀まで残ることになります。

その後、ナポレオン・ボナパルトの率いるフランス軍の侵攻(ナポレオン戦争)と王位の簒奪、それに抵抗した1808年の反ナポレオン蜂起を機に、スペイン独立戦争という愛国的な名が付いた戦争が始まります。

さらに1859~1860年のスペイン・モロッコ戦争など、国民の愛国的感情を高揚させようとする対外戦争が繰り返されました。しかし、こうした試みは「回帰的ナショナリズム」というべきもので、新たな国民的価値を作り出すというより、スペインの過去の栄光をうたって祖国愛を感情的に求めるものに過ぎなかったようです。

このようなスペインの国民形成の脆弱さは、学校教育や軍隊といった「装置」が国民的なものにならなかったことが反映していました。1857年にモヤーノ公教育法が制定されましたが、1900年になっても識字率は4割に達せず、学齢期の6割は就学していませんでした。

そのため公用語のスペイン語も普及せず、カタルーニャ語、バスク語、ガリシア語など、地域の固有言語が根強く残り、1900年になっても全人口の4分の1がスペイン語を母国語としてはいなかったのです。

ところでナポレオン戦争後のウィーン体制で、ボルボン家のフェルナンド7世がスペイン国王に復位。フェルナンド7世には嫡子がなかったため、後継者は弟ドン・カルロスと目されていました。

しかしフェルナンドは、娘イサベルが生まれると、長年用いられてきた女子相続を否定するサリカ法を廃棄。1833年に王が死ぬと、わずか3歳のイサベルが、イサベル2世(在位:1833~1868年)=写真、wiki=として即位しました。


これに承服できないカルロスはポルトガルで国王への即位を宣言し、カルロス5世と称した。これを受けて、バスク地方とナバーラでカルロス支持派(カルリスタ)による反乱が起こり、1833年から1876年まで3次にわたる内戦に突入することになります。

カルロス5世は絶対君主制の維持や復古を唱えました。一方、イサベル女王を戴くマドリード政府は、先王の方針を改めて自由主義を標榜。この内戦は王位継承戦争というだけでなく、スペインの体制変革の意味をもっていました。

内戦の間、マドリードの政府は、憲法の制定、教会財産の没収、教会の10分の1税の廃止、封建的領主制度の廃止、営業の自由の確立など自由主義に基づく改革を行いました。それは復古主義者たちの基盤を突き崩す力ともなり、まがりなりにも近代国家としての装いを整える足掛かりともなったのです。

しかし、1843年に始まったイサベル2世の親政は、決して讃えられるものではありませんでした。軍や党派の争い、近臣の間の対立によって、クーデターや陰謀が繰り返されることになるのです。

女王はしばしば反動的な将軍や政治家にも、教会や修道院にも好意を見せ、腐敗した廷臣や側近の言いなりになりました。そんな最中の1868年9月、フアン・プリム将軍がカディスでトペーテ海軍少将とともに反乱を起こします。

政府軍はコルドバ県アルコレアで敗北し、イサベルはフランスに亡命します。9月革命は成功し、自由主義連合のセラーノ将軍を首班とする臨時政府がつくられ、基本的人権の保障を約束した「国民への声明」が発表されました。いわゆる「革命の6年」の幕開けです。

イサベルの代わりに、プリム将軍らによってサヴォイア家からアマデオ1世が迎えられましたが、国王として即位する直前にプリム将軍は暗殺されてしまいます。後ろ盾を無くしたアマデオ1世に対し、共和派から退位を求める声が噴出。アマデオ1世は、即位からわずか3年後の1873年2月に自ら王位を退くことを余儀なくされました。

それに伴って、スペイン史上初めての共和政(第1共和政)が樹立されることになったのです。

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